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2007年9月30日

Statetris



国のパーツを使ったテトリスゲーム「Statetris」に日本バージョンが登場しました。先にユーラシアかアジアバージョンが来るかと思っていたのですが、制作者は日本びいきだったのでしょうか。

そのほか、イギリス版とサウスカロライナ版も登場しています。

アクセスは以下から。

国のパーツを使ったテトリスゲーム「Statetris」に日本バージョン

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天保国図

天保2年、幕府は諸大名に対して地図及び郷村高帳の作成を命じた。天保9年にほぼ完成したものの、全国地図については既に大日本沿海輿地全図が作成されている事から作成されず、同地図に欠けていた内陸部を中心とした 詳細な記述が行われて、大日本沿海輿地全図とともに明治以後の地図の参考にされた。

大日本沿海輿地全図

1745年 上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の名主・五郎左衛門家で生まれる。6才の時母が亡くなり婿養子だった父は兄と姉を連れ実家の武射郡小堤村(現・横芝光町小堤)の神保家に戻るが、三治郎は祖父母の元に残る。その後生家を叔父(母の弟)が継ぎ、三治郎が10才の時に父の元に引き取られる。


伊能忠敬旧宅(香取市佐原)1762年、18歳の時に、下総国香取郡佐原村(現・香取市佐原)の伊能家に婿養子に入り、以来しばらくは商人として活動する。伊能家は、酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいた他、利根水運などにも関っていた。商人としてはかなりの才覚の持ち主であったようで、伊能家を再興したほか、佐原の役職をつとめたなどの記録が残されている。また、かなりの財産を築いた。

1794年、50歳の時に隠居し、家督を長男景敬に譲ったのち、江戸に出る。江戸幕府の天文方・高橋至時に師事し、測量・天文観測などをおさめる。

1800年、56歳の時に、第1次測量を開始。これは、測量家としての腕を見込まれたことのほか、忠敬が私財を投じて測量事業を行おうとしたことが幕府にとっても有益だと判断されたということがあったようである。最初の測量は蝦夷地(現在の北海道)およびその往復の北関東・東北地方において行われた。ただし、忠敬の測量が極めて高度なものであったことから、その後徐々に幕府からの支援は増強され、国家的事業に育っていった。


上野源空寺にある伊能忠敬墓。左側に、高橋至時・高橋景保の墓が並んでいる。こうして作られたのが大日本沿海輿地全図であり、大変精度の高い日本地図として評価された。完成したのは忠敬没後の1821年であった(仕上げ作業を担当したのは高橋至時の子、高橋景保)。墓地は上野源空寺(源空寺には、高橋景保・高橋至時・伊能忠敬の大日本沿海輿地全図組三人頭の墓が並んでいる)。また佐原の観福寺にも遺髪をおさめた参り墓がある。

後年(1828年)、シーボルトがこの日本地図を国外に持ち出そうとしたことが発覚。これに関係した日本の蘭学者(至時の息子高橋景保ら)などが処罰された(→シーボルト事件)。

1745年 上総国山辺郡小関村の名主・五郎左衛門家で生まれる。
1751年 (6歳)母が亡くなり、婿養子だった父は実家の武射郡小堤村の神保家に戻る。
1755年 (10歳)実家の神保家に戻っていた父の元に引き取られる。
1762年 (18歳)下総国香取郡佐原村の酒造業を営む伊能家に婿養子に入る。
1794年 (50歳)隠居し、家督を長男景敬に譲る。
1795年 (51歳)江戸に出て幕府天文方高橋至時に暦学天文を学ぶ。
1800年 (56歳)第1次測量
1801年 (57歳)第2次測量
1802年 (58歳)第3次測量
1803年 (59歳)第4次測量
1805年 (61歳)第5次測量
1808年 (64歳)第6次測量
1809年 (65歳)第7次測量
1811年 (67歳)第8次測量
1815年 (71歳)第9次測量
1816年 (72歳)第10次測量
1818年 (74歳)死去、喪を秘して地図製作を続行。
1821年 『大日本沿海輿地全図』完成、喪を公表。

「伊能大図」については、2001年、アメリカ議会図書館で写本207枚発見。これらは、国土地理院の前身である陸軍参謀本部の輯製20万分1図作成のための骨格的基図として模写されたものが、第二次世界大戦後アメリカに渡ったものと考えられている。続いて国立歴史民俗博物館で2枚、国立国会図書館で1枚発見された。欠けていた4枚については、2004年5月に、海上保安庁海洋情報部で保管されていた縮小版の写しの中に含まれていることがわかり、全容がつかめるようになった。なお、幕府に献上された正本は明治初期1873年の皇居炎上で失われ、伊能家で保管されていた写しも関東大震災で焼失したとされる。
2006年12月、「伊能大図」全214枚を収録した「伊能大図総覧」が刊行された。
2007年1月、海上保安庁海洋情報部所蔵の写しの中から最高レベルの原寸模写図3枚を含む色彩模写図が発見された。
宗谷付近については、当時、伊能がその弟子であった間宮林蔵に、依頼して行わせた測量結果を基に作図が行われた。
日本で初めて金星の子午線経過を観測した人物である。
伊能忠敬は、深川界隈に住居を構え、全国測量の旅に出かける際は、安全祈願のために、富岡八幡宮に必ずお参りに来ていた。2001年、境内に銅像が建てられている。
晩年、旅先から「歯がなくなって好物の粕漬も食えなくなって悲しい」と言った内容の手紙を故郷に送っている。
現存するもっとも古い唐木仏壇の一つに、伊能忠敬家の仏壇(18世紀頃)がある。
1999年から2001年にかけて「伊能ウォーク」と呼ばれるイベントがあった。このイベントでは、伊能忠敬の測量隊が歩いたルートを歩くほか、拠点地で伊能図の展示会などが行われた。
江戸時代を通じて伊能図の正本は国家機密として秘匿されたが、シーボルトが国外に持ち出した写本を基にした日本地図が開国とともに日本に逆輸入されてしまったために秘匿の意味が無くなってしまった。慶応年間に勝海舟が海防のために作成した地図は逆輸入された伊能図をモデルとしている。なお、伊能図は元来、沿岸の地形を確定させるために作成されたものであるため、内陸部の記述は乏しく、シーボルトは正保日本図などで内陸の記述を補った。このため、
寛文6年(1670年)の干拓で消滅した下総国の椿海が描かれている。
大和川が大坂湾に注がずに宝永元年(1704年)の工事完成以前の淀川と合流している河道で描かれている。
阿賀川が日本海に注がずに享保15年(1730年)の工事完成以前の信濃川と合流している河道で描かれている。
などの実際の地形と異なる地形が描かれている。
シーボルトが国外に持ち出した伊能図の写本は、日本に開国を迫った際にマシュー・ペリーも持参している。ペリーはそれを単なる見取図だと思っていたが、日本の海岸線を測量してみた結果、きちんと測量した地図だと知り、驚愕したと言われる。
伊能忠敬ゆかりの香取市佐原には伊能忠敬旧宅をはじめ、伊能忠敬記念館、1919年(大正8年)建造の伊能忠敬銅像、その名をとった「忠敬橋(ちゅうけいばし)」などがある。また、旧宅近くの香取市立佐原小学校の校歌には忠敬翁が歌われており、命日の5月17日には忠敬祭(ちゅうけいさい)として墓参などの行事が行われている。

享保日本図

享保4年、8代将軍徳川吉宗が直々に建部賢弘を召して再訂を命じた。建部は望視(交会法)を用いて主要地点の位置を確定していき、享保8年に完成した。なお、この時には諸大名からの国図の提出は求められなかった。

元禄日本図

元禄10年4月28日、幕府は諸大名に対して再度地図及び郷村高帳の作成を命じた。元禄15年、諸藩の国図を元に井上正岑・狩野良信(御用絵師)らによって全国地図も作成された。正保以後の変動については詳細に記述されているものの、地形の正確さにおいては正保日本図より後退している。

正保日本図

正保元年12月25日、幕府は諸大名に対して地図及び郷村高帳の作成を命じた。この際に6寸1里(21600分の1)という全国共通の縮尺が導入された。通説では慶安4年(1651年)に新番頭北条氏長が諸国の国図を元に全国地図を作成して幕府に献上したと言われてきたが、近年の研究では全国地図の作成責任者は大目付井上政重であったこと、慶安4年時点で未だに国図を完成させていない藩が存在する事が明らかになっている(つまり全国地図を編纂できる段階ではない)ことなどから、同図の作成者を北条氏長とする記録には誤りがあり、実際の作成者は井上政重と見るのが適切であって北条氏長は寛文9年(1669年)に行われた校訂事業の責任者であったと見られている。

慶長日本図

江戸幕府を開いた徳川家康は慶長10年9月に全国の諸大名の領地と寺社領の分布・石高に関する調査を行い、西尾吉次を東日本、津田秀政を西日本の担当奉行に任じた。この調査に基づいた日本地図が作成され、寛永・慶安年間に修正が行われたとされている。

これは全国の概況を示すためのものでこれを参考に全国の大名領の再編成を行ったのではと推測されている。現在国立国会図書館に所蔵されているものは、寛永期に校訂されたものであると言われている。